こんな話いくらでもされてきたわ!っていう話題を蒸し返すのが僕のブログです。
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会社のトイレに行く。
うんこをしに行く。
電気をつけて、個室に入り、ズボンを脱ぎ、腰掛ける。
膝に肘をつき、手のひらで押し上げた顎に違和感を感じながらふと、目の前の扉と目を向かい合わせる。目がどこにあるかは知らない。けれども、見られている感覚はある。
ふと思い浮かんだのは、「光とは人間なのではないか」ということである。なんともメルヘンチックで外国語の教科書的に「いいえ、ソレは違います」と金髪美人のねぇちゃんに返されそうな話題なのだけれど、モヤモヤがかかる前に考えておきたかった。
トイレに光が灯っていること、それすなわち誰かがいるということ。
トイレの扉を開ける。
小便器と対峙する、誰も確認できない。
「なるほど、大便器に誰かいるな?」
扉の色を確かめる。青、青、赤。ああそうだ、うんこなうがワンパースン。
光が居るということは、人が居るということ。
夜、家々に電気が灯っているのが、外から窓を眺めると分かる。
漏れている光が「私はここにいます」と主張している。
江戸時代、夜中まで火が灯っている家はきっと盗人によく狙われただろう。
いつから光は人を示すようになったのか。人が火を持ちだした時からなのか。
原始時代は光がある時は外に出ることを許可され、闇が外を暗くするときには棲み家に帰らなければならない掟がきっとあったと思う。その時、とある一つの洞窟の入り口に光が揺れ、漏れていたら、彼らはなんと思うのだろうか。きっと「ああ、そこには人間がいる」とそう思っただろう。