マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

汽水域

 そういえば最近はあんまり文章を書いてなかったな、いや正確には普段は無意識に追いやられている部分を掘り起こしたような文章を、だった。仕事でレポートを書いていた。スライド3,4枚でいいからと言われたものが結局10枚にもなってしまった。こういう仕事で文章をウンウン唸りながら書いていると無意識の部分なんてどうでもよく感じてしまう。こうやって人は三日坊主みたく何か習慣にしようとしていたものを捨て去ってしまうのだな。

 

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 会社が移転して、あまり馴染みのない場所で働くことになった。渋谷から逃れたい一心で心機一転転職しても渋谷に移転したりと、逃れられないように渋谷で働いていたが今回は一旦落ち着くんだろうか。

 所変われば品変わるではないが、所変われば道行く人々の雰囲気もガラッと変わるもんなんだなと、普段は忘れていることを体感する。渋谷といえば若者の街と言われている ―― 実際はそんなこともなく、ただのIT業界の会社が集うオフィス街だ ―― が、今回の地の僕のイメージはエンタメとビジネスの汽水域のようなところだ。渋谷のように尖ってもなく、かと言って丸の内のように落ち着いているわけでもない。どのアンケートにもある ”どちらでもない” のように曖昧でふわふわとした場所だ。こういう場所では普通であることが最も迷彩服に近い。その迷彩服がどんなものか分かりづらいためにそれを着るのが難しく、何かしら人は目立ってしまう。それが服装なのか髪型なのか仕草なのかは各々によって全く異なるところだが、普通を探ることが難しいこの街では、何を着てても、どうセットしても、何をしてても注目されてしまうかもしれない。

欲しいもの

心の底から欲しくなるものは、”誰しもが欲しがるもの” と ”個が惹かれて欲しがるもの” の2パターンに大別できる。

 

誰しもが欲しがるものとは、短絡的思考で例えを言えば「ヴィトンのバッグ」や「三菱パジェロ」のような高価で価値のあるもの。所持しなくとも価値があり、誰でもその既成概念上の価値を理解できるもの。簡単に現金化できる、もしくは消費することで価値を体験できるもの。普遍的な価値を持つもの。または流行り・モードが非常に重要になってくる。今の時流にあったものは誰しもが欲しがる条件の一つである。ハンドスピナーは1年前や10年後に欲しがられるかどうかは甚だ疑問である。

 

個が惹かれて欲しがるものとは、例えば、猫好きの人が自分の飼っている猫の似顔絵を描いたTシャツをくれるとなったら欲しい人とそうでない人は別れるだろう。自分だけのもの、他人にはないもの、世界に一つなどの結果的に個に紐づくものも欲しがる傾向が強い。

 

ロラン・バルトは写真の見方やそれに伴う経験を ”ストゥディウム” と ”プンクトゥム” の二つの対立構造にしたが、対立構造とは言わずとも、この二つの ”周辺” と ”個” の欲求を刺激することがないと結局のところ失敗に終わる。どうにかしてどちらか、または両方を刺激し活発にさせるものやことを作る必要がある。

胆力

先日、評価面談があった。

そこそこの評価をもらったが、総評の中で言われたことの中で一番印象深かったものを振り返ろうと思った。

「キミの胆力というかある種の鈍感さはすごい大事だと思った」ということだった。

何があったかというと、簡単に言えば失敗しちゃいけないところで失敗してしまったが、クライアントや会社のメンバーに特に臆することなく報告したことだろう。割とクリティカルな問題だったが、しかしまぁ報告せずに物事を進めてはいけないと思ったからそうした。とはいえ、やっぱり自分としてもどうしようかめちゃくちゃ悩んだ。報告に至るまでの15分間でおおよそ3ヶ月分くらいは老化が早まっただろう。それはただ単に誰かに見られていなかっただけのことだ。

では、その鈍感さはどこから来るのかと言われると、それはただただわざとそうしているだけのことだ。内心ドキドキしていても、落ち着いたフリをして、臆していないように見せている。それが慣れるとどんどんと胆力が出てきて、何事に対しても動じることが少なくなる。今回もその鍛錬のおかげだろうと思う。全ての起こってしまったインシデントのレベルを下げてしまっているとも言い換えることができるかもしれない。起こったものはしょうがないよね、軽微なバグも重大なバグも一即多にして、せめて改修の優先度だけを変えようと、気持ちの上で整理することだ。口では申し訳ないと言いつつも、脳みそではじゃあどうするかだけを考える。

そうやって鍛え上げられた胆力もどきが作られたのだと思う。それが本当に良かったのかどうかは分からないが、困ったときに冷静になれる。ただ、先日の大島キャンプにおいて、全てのキャリアの携帯電話が繋がらないような場所で、レンタカーのタイヤがバーストしてしまったときは流石に焦ったがみんなの力を結集することでスペアタイヤに替えることができた。物理的に困ることにはまだ対処できてないようなので、それはまたの機会までに胆力を鍛えるようにしたい。

キャンプ

 先日、新潟にキャンプしに行った。ちょうど台風が日本列島に上陸するかしないかのタイミングだった。決行か中止か怪しいところだったが、自称晴れ女がいたおかげで、僕の雨男っぷりが相殺されたようで無事楽しく終えることができた。

 新潟というところは裏日本の一つであり、年中曇りと雨と聞いていた。聞いていたとおりの曇り具合は健在だが東京よりよほどカラッとしていて過ごしやすいところだな、という印象になるくらいには好きになった。風の強い夜を越え、続けて曇りの朝の早いタイミング、まだ関東全域は雨の予報だった。まだ雨は降っていなかったが、これから降ってくるようなぬるい風と暗い雲があたりを包んでいた。

 テントから徒歩数分のところにあるトイレに行く途中、山の開けたところから、遠くの山々と尾根の棚田がよく見えた。よく見ると、とても青い。緑生い茂る山は碧く、棚田は緑がかってまるで皐月のような景色だった。あぁ空気遠近法ってまさにこのことなんだなと、実感を、した。頭では分かっていたものの、これだけ色が変わってしまうのかと。青くフィルターがかかったようなぼんやりとした景色が、キャンプをするということを象徴しているような気がして、みんなが片付けに勤しんでいる間も僕は何かを噛み締めていた。

アカネ色に染まれ

 佐藤雅彦の講演会、というか授業に行ってきた。クラウドファンディングサイトと東京藝大が手を組んで研究を加速させるためのプロジェクトをやっていて、その中に佐藤雅彦研究室の映画を作るプロジェクトの支援をした。その支援に対するリターンとして授業を2コマ受けられる権利を得たので、まだ残暑厳しい時季に小躍りになりながら上野まで向かった。佐藤雅彦の大ファンとしては授業聞くことができるなんて一生の思い出だ。

 

 終了後にため息しか出てこなかった。メモ用に買っていった文庫本サイズのキャンパスノートを一冊使い切るくらいにはたくさんの、有用で、心が震える、何度も読み返したいメモを、一心不乱に殴り書いた。家宝が出来上がった。このブログに軽々と書けるような安いものではない。たった3時間の授業で家宝になった108円のノートに書いた教えが、自分の中に浸透しきってから「あぁもうこのノートは自分に必要ない。別の誰かに託したり教えてあげたい」と思ったときにまた書くかもしれない。それが数ヶ月後なのか数年後なのか、はたまた墓まで持っていくのかは今のところ検討もついてないがなるべく早く手放したい。こういう風にして宝物に呪いがかかるんだろう。

 

 いやいや、そんな自慢がしたくて筆を滑らしたわけではなくて。あぁ佐藤雅彦ほどの天才ですら、いや、彼のような作り方をしている人だからこそそうなんだろうなと思ったことがここに一つ。それは「自分の中に面白さそのものは無い」ということだ。彼が明確にそういうことを言っていたわけじゃなくて、僕が授業の中でひしひしと伝わったことの中の一つがこれだった。ただ、面白さの基準というのは自分の中にしかないということも同時に言っていたように思える。

 

 彼はクリエイターである前に蒐集家(コレクター)なのだ。もちろん佐藤雅彦自体は既におもしろいものをたくさん作り続けている第一線のクリエイターなのだけど、彼は自分の周りで起こっている面白い現象を収集し、どうして面白いと感じたのかを分析、言語化、体系化し、それを作り方として昇華させている。非常に理系的なアプローチだと思う。

 

 安い言い方しかできないが、自分の中に何か面白いものがあると勘違いして深掘りしていては一生抜け出せない穴ができている可能性があるなと。そして、イヤホンをして耳を塞いだり、先月月賦を払い終わったiPhoneSEに釘付けになりながら歩いていると、iPhoneのアンテナが拾ってくれる見えないものは見えても、いま目の前にある見えるハズのものに気付かなくなってしまう。世の中の機微に気付かせてくれるアンテナは自分の中にしか無い。更に分析し、言語化しなければ面白いものを消費して終わるだけになってしまう。まずは収集活動を始めよう。

 

 佐藤雅彦も30歳からクリエイター部署になったとおっしゃっていた。彼と違って東大卒でもないし、電通勤務でもないけど、彼が大丈夫だと言ってるなら信用したい。信用するかどうかの判断軸もきっと自分の中にしかないから、まずは自分の判断軸を信用するところが収集のスタートだ。