読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

メモ

何か書くことすらサボっていた、でも何もしたくない。なんでだろうか。仕事は適度に忙しく、厳密には今は暇だがやることはある。本を開いても集中できるわけでもなく、キーボードに向かっても指の動きも徐々に鈍っていき、白い紙とボールペンを前にしても特にやりたいことがない。美味しいものを食べれば変わるのか、身体を動かせば変わるのか、人と話せば変わるのか分からない。自分が何をすれば何になるのかまたよく分からなくなってきた。分かっている人など居ないと思う反面、世界に取り残された気持ちにもなる。

 

ーーーーー

嘘をつかないということはそれほどまでに難しいことなのだろうか。

誠実に生きるということはそれほどまでに難しいことなのだろうか。

偉くなればなるほど、金があればあるほど倫理的判断がつかなくなるのは何故だろうか。

 

ーーーーー

足跡が付かない程度に歩いてしまっている。沼にハマらないように、蟻地獄に足を取られないように歩いている。立つ鳥跡を濁さずのことわざよりももっともっと何も残らないような去り際で、濁りようのない既に跡のない状況を作り上げている。

 

ーーーーー

雪の影は青く、空高い風は鼻をつんざく音を立てる。

 

ーーーーー

 人事に「別の部署の人と交わりをもっと持った方がいいよ」と言われた。まぁわからんでもない。自分のことをもっと相手に知ってもらった方がいい。とも言われた。まぁわからんでもない。もしかしてコミュ障?(意訳)とも言われた。それは違う。

 上記のことをまとめると、会社で働くんだからある程度演じなくちゃねということだろう。わかりますよ言いたいことは。ただこんなことを3年も経とうとする会社で言われるとは思わなかったし、やっぱりこの人たちにも伝わってないんじゃろうなということがよく分かった。顔貌が自分であって、中身がどこかの誰か、きっとどちらかと言えばウェイ系な人の方が喜ばれるのだろうかそういうのが求められている人物像だろう。それになれば楽やんけとそう言われた。そう言ってる本人の立場は揺らがないからポジショントークだと思ってるので、申し訳ないが「はいそうですか」程度にしか思ってないっちゃ思ってない。

 コミュ障ではないと断言できるのは、別々の友人に「ふじいさんはいつどんな立場の誰とでも同じように接してて仲良くなってるのがすごい」と言われたことが何度かあるからだ。それにおいては確固たる自信がある。普段通りに接してるだけなのですごいことをしている自覚はないが。

 そして、この流れで一つだけ導き出した自分の考えがある。「長く付き合う必要が出てくれば出てくるほどに、情報は小出しにした方がよい」という経験則が自分の中にあるようだ。長く付き合うとは長い時間を掛けて知ってもらうということだ。最初からフルスロットルだとお互いにしんどいだろう。俺だってそこまで仲良くなったとしても、すぐに離職する人の多いこの業界で悲しい別れを量産するようなことはしたくない。おそらくその経験則に毎度則っているせいで自分のことを理解できていない人がおるんでないだろうか。と分析してこの話はとりあえず終えた。

午前中のシモネタ

 おっぱいが好きだ。思春期の女性のおっぱいの話を流し見した。これを書いたのが40代男性だとしても、俺は許すよ。

anond.hatelabo.jp

 自分の身体の一部が、自分の意志とは関係なく膨らんでいく感覚とは、どのようなものなんだろうか。このまま大きくなり続けてしまえば、きっと破裂してして大惨事になってしまう!とかこの膨らみにヘリウムが入っていたら大気圏まで飛んでいけるとか想像したりするんだろうか。僕の場合、身長は自分の意志とは反対に徐々に成長が鈍化し、そのまま10年以上同じ背の高さで物事を見るようになった。これから自分の意志の弱さと手を繋ぎながら、腹囲を気にしつつご飯を食べるようになっていくのだろう。自分の意志が試されるのはこれからだ。

 そういえば僕がちょうど思春期だったとき、おっぱいに興味はなかった。こう言うと、例えば「篠崎愛が好き(王道)」「片山萌美が好き(こないだヌードになった)」「稲村亜美が好き(スタイルが良すぎる)」とか主張しているような、おっぱい星に移住して十数年経ったおっぱい星人がそんな時期があったのか!と思われるかもしれないが、おっぱいより面白いものがそこらじゅうにあった。いや、では今おっぱい星人なのは何故なのかと詰問されるとたじろいでしまうが、やはりおっぱいより面白いものは非常に少ないということを知ったからとしか言い様がないのかもしれない。

 人はおっぱいに育てられて、おっぱいに還っていくのではないか。そんなことを考えた午前10時頃だ。

どうでもいいこと

 ちょっとした忙しさと未完成な文章が積もってブログを書いていなかった。ブログが毎日書けるような暇さはあんまり好きじゃないけど、毎日メモ帳に向かって何かを考える時間はやはり欲しいなと思う。

 

ーーーーー

 目を閉じて、少し指の平で圧をかけると、作り出した暗闇の中を光が駆けるのが分かる。当たり前っちゃ当たり前でこういうのはあんまりやっちゃいけないらしいが、疲れ目のときに少しやると疲れがとれるような気がして仕事の休憩時にたまにする。おおよそ真ん中から周囲へと光が動くような気がするので、宇宙を高速移動しているようなそんな錯覚に陥る。小さい頃から不思議とこれをやれば自分がすごい矮小な存在であることが確認できる気がして、この行為を重要なものとして捉えている。

 

ーーーーー

 はいしどうどう はいどうどう

 はいしどうどう はいどうどう

 

 どうでもいいことを書くことが好きなんだろうな。毒にも薬にもならないことは中庸と呼ぶのか知らないけど、そういう窪みみたいな、水を垂らすと次第に動いて溜まる場所のようなものが好きなのだろう。

オレと多様性

 オレオレ詐欺が何故普及してしまったのか。

 それは、電話越しに聞く声は本当の声ではなく、電子的に変換されたテンプレートの声の一つだから聞いたときに人間の脳みそがその人のものだと補正してしまうためである…みたいなことをつい知識をひけらかすのが好きなので書いてしまったが書くつもりは毛頭なかった。

 冒頭の疑問の答えの一つは、ひとえに男性の一人称のほとんどが「俺」だからである。

 種の保存のためには多様性が不可欠だ。日本では役割語としてではない一人称の多様性があったはずだ。わたし、おれ、ぼく、わし、おい、おいどん、わい、わて、わだす、ミー等々…。これほど多くの一人称が未だに使われていたとしたらば。「もしもし?オレオレ」なんて言われても「いや、うちの息子は自分のことをわてと言ってですね」みたいなやりとりが発生するわけで、多様性によるセキュリティの高さを目のあたりにするはずだ。詐欺グループもSNSで息子の一人称をいちいち調べないといけなくなり、コストがかかってお手上げになるはずなのだ。それらの多様性を失った結果、一人称の生態系のバランスが崩れてしまいオレオレ詐欺のようなシステムの穴をついた巧妙なハックがなされたと言っても過言ではない。俺がオレに喰われるのだ。

 ん、待てよ。じゃあ英語圏では主語が ”I(あい)” しかないけど、こういう詐欺は行われていないのか?と思ったら数年前に結構流行ったみたいね。2010年にはアメリカにはまだないという記述もある。2013年頃に急増したみたいですね。とはいえ日本の後釜とは面白い。詐欺のタイムマシン経営(詐欺)は日本から輸出されるんだなぁ。つまりグローバルにおける詐欺先進国ということか。黒魔術師や陰陽師が詐欺をしていたころが懐かしいよ。

穴を掘る vol.2

“なんか、PinterestとかTumblrで自分の好きなものを集めるのって、限界があるというか嗜好の指向性が測れない気がしていて、いや、ある程度の方向性は分かるんだけど、むしろ嫌いなものとか嫌だなって思ったものを集める方が見返しはしないけど、自分の事が分かりそうだなって思った。”

 2014年4月末のツイート。

 指向性の意味が多分本来の意味と違っていて、この場合は「どういうものに食指が動くかという方向のこと」を差していると思われる。「嗜好の指向性」って言いたかっただけじゃろうが!と突っ込みたくなるけど、まぁそこは許したる。各々振り返ってみてどうだろうか。

 「俺の血はこのラーメンのスープでできてる!」って言いながら毎日のように食べてたあそこの美味かったラーメン、もう食べてませんね?引っ越してから行きづらくなっちゃったしな。

 「この曲良すぎw末代まで伝えるべwww」あのミュージシャンの、あのアルバムの、二曲目、もう聞くのもやめましたね?最近またアルバム出したらしいですよ?

 「OP1万回見たwwwwww」と言っていたあのアニメ、中だるみした19話くらいからもう見てませんね?そういえば毎クール好きなキャラを問われたときに変わっている気がしませんか?

 

 そういう風に”好きなもの” は移りゆく。決して嫌いになったわけじゃなく、飽きて “好きなもの” から ”好きだったもの” へ変化していく。それは自然なことで、決して悲しいことじゃない。あの時好きだったな…ポロリ…(涙の溢れる音)とノスタルジックになれるだけ自分の身に浸透したまでのこと。好きなものの指向性は社会の流行などにもなびいてしまうので、現在自分が向かっている方向が流行と共に流されているのか、自分が思っている向きなのかは客観視しないと分からない。現時点では自分への正しい向きがどの方向なのかは定かではない。

 翻って ”嫌いなもの” はどうだろうと考えたとき、それらは大して “好き” または “平気” に転じてはないのではなかろうか。幼稚園のときに嫌いだったピーマンが食べられるようになった!という人は腐るほどいるだろう。”嫌いなもの” は意識をして避ける・克服することはできる。しかし、”嫌いなもの” をまるで花粉症の治療のように、気づかぬうちに摂取し克服することは難しいのだ。それゆえに人間の中には ”嫌いなもの” の情報だけが溜まっていく。人は流動的な好きなもので形作るよりも、固着した嫌いなもので形作ったほうが分かりやすく、その人のカタチが見える…ような気がする…のだ。